2019年09月17日

韓国人はなぜ日本人を未開だというのか?

ネットでよく見られる書き込みに「日本人は未開だ」と
いうのがあります。
「政治後進国」というのもありますね。
取り合えず日本は野蛮で未開な土人(もしくは猿)国と
韓国人は考えているようです。
文明は朝鮮から日本へ伝わったと彼らは信じています。
中国に近い方が偉いという「中華思想」が根拠のようですが
大陸国の方が島国より文明的であるという事なのでしょう。
しかし、どういうの意味での「未開」なのか?
呉善花さんと井沢元彦さんの対談集「困った隣人・韓国の
急所」という本を読んで、ようやく理解できました。

韓国の根っこは中国より伝わった「儒教」です。
儒教というのは人間を自然界の頂点だと位置付けるんですね。
つまり現実世界では人間が一番優れていて、
自然というのは人間が征服し支配するものという概念です。
それは当然、人間社会の秩序にも及びます。
「儒教は自然の秩序をそのまま人間の制度に当てはめる」
支配する者とされる者を、概念でガチガチに締め付ける、
厳しい序列国家が出来上がるわけです。

自然は決して崇めたり畏れたりする対象ではありません。
韓国では自然を楽しむ為に人は集まってくるが、
拝んだりとかはしないそうです。
人間の益になるのなら、大木でも切り倒すのが儒教、というか
実に西洋文明的大陸思考です。
支配層から賤民まで、儒教国家というのは非常に厳しい
序列の縦社会です。
そうして国を一つの思想でまとめないと、始終攻め込んで
くる外敵に対抗出来なかったからでしょう。

対する日本はどうだったか。
外敵は少なかったが自然災害の多かった日本では、
自然は闇雲に戦いを挑んでも決して勝てる相手では
ありませんでした。
無力な人間に出来うる術は、ひたすら崇め畏れる事です。
日本人にとっての自然は征服し支配するものではなく、
どこまでも畏れ崇めて共生するものなのです。
その考えが「万物すべてに魂が宿る」という土着信仰の元に
なったように思います。
特に年月を得た大木や岩などには神が宿ると考えて
御神体として祭ったりします。
人間の益になろうとも、神の樹を切り倒すなど日本では
あり得ません。
私の実家近くで由緒ある大木の所を道路が通っているのですが、
「切り倒す」という選択肢は無かったようですね。
その木を普通に避けて道路が走っています。

この間、中国人が香港人の書いた絵馬を神社に埋めて
騒動になっていましたが、それについたコメントが面白かった。
「神社の土を掘り返すなんて罰当たりな」とか、
「神聖な場所で何て事をするんだ」とかいうのが凄く多くて
普段宗教的な事など何も考えていなくても、
無意識に神域を崇めるのが日本人らしいですね。

韓国同様、日本にも儒教は入ってきたのですが、
仏教がそうだったように、何かふわっと入ってきて、
ふわっと共存(つまり魔改造して)する感じになりました。
「儒教」では上下関係が総てです。
日本も制度的には当然そうなのですが、民族意識というか、
基本的世界観は古代同様「万物平等」です。
ガチガチな儒教国家からすると、実に曖昧で原始的で
非文明的であり未開人だという事になりますね。
あと朝鮮では儒教が必要とする支配層が文官でしたが、
儒教がゆるゆるな日本では武人でした。
つまり粗野な野蛮人。
この点も日本人が韓国人に「未開」だと言われる所以でしょう。

それにしても、惑星探査機まで飛ばせる土着信仰の未開人て、
何気に凄くないですか?
日本は古代信仰を持ち続けたまま(つまり一神教化せず)
先進国化した稀なケースだと思います。



posted by にょん at 15:45| Comment(0) | 日韓問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする