2020年12月01日

多文化共生条例

■多文化共生条例、群馬県が素案 
     全県民が理念共有、来年度施行へ  
  
     (産経)

条例案の前文はこうした情勢を踏まえて、外国人を単なる労働力
ではなく「仲間」ととらえ、「外国人との共生を推進し、
外国人と力を合わせて持続可能な地域社会の実現を目指す」
とうたった。


    ―――――

何とまあ、素晴らしく絵空事な条例ではないか!
単なる労働力では無く「仲間」としてとらえる!?
ハハハッ。
綺麗事もいい加減にして欲しいね。
では何故実習生が仕事が辛いと年に8000人も失踪するんだ?
聞いていた話と全然違い、搾取されるだけだという事実は?

「多文化共生」がどれほど難しいことか。
アメリカや欧州の失敗例を見れば嫌でもわかるだろうに。
皆仲良くお友達?
小学生の学級会目標か。
これを大の大人、しかも官僚が本気で言ってるのだとしたら、
実に気持ち悪い話だと思う。

「グローバル化」という耳障りのいい言葉は、
どこまで相手を寛容出来るかという問題を孕んでいる。
なぜか日本人は自分達の常識に照らし合わせて、
相手も譲渡してくれるだろうと勝手に思い込んでいるが、
中韓人やムスリムの例を見ればそんなことは無いとわかる。

日本人の「郷に入っては郷に従え」という価値観は、
世界基準からすればやはり少数派だろう。
大抵は移民した先に同国民のコミュニティを作る。
そこに後から同国人を引き入れる。
そうして他国に自分達の勢力地図を広げるわけだが、
それが群馬県庁の掲げる「仲間」という認識なのだろうか?

「多文化共生」を謳うならば、まずは受け入れ先に確固たる
文化の下地が無くてはならない。
条例のHPを見にいったが、どうにもふわふわした感じで、
「こうしてあげましょう」的表現ばかりだった。
このはっきりしない、あやふや感は日本文化独特のものだが、
曖昧な境界線は衝突の原因になるだけだ。

例えば宗教関連が分かりやすい。
モスクを建てたい、専用墓地を作りたいと言われたら?
土地を売らずとも建物が建ってしまったらもう撤去は出来ない。
日本の神道はすべてを許容するが、
イギリスではそれらを容認しているうちに、
街がひとつ乗っ取られてしまったからね。

私が危惧するのは、衝突が起こった場合のことだ。
おそらく群馬県側は譲歩するだろう。
ことを荒立てないのが日本の文化だから。
川崎のヘイト条例が良い例。
こうして日本人<外国人の縮図が完成していく。

行き着く先は「外国人参政権」。
これが通ったら日本国は終わりだと思ってる。
その後は「日本」という名を借りただけの別の国になるだろう。
posted by にょん at 02:36| Comment(0) | わたしはこう考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする