歴史的速報様の記事より。
鹿児島の小学生が、岐阜県と滋賀県にまたがるおよそ70キロの戦跡を
踏破したそうです。
元ソースの関西NEWSより↓
島津家の退路 小学生がたどる
この行事は、関ヶ原の戦いで敗れた島津義弘とその部下たちが鹿児島に
戻ったルートをたどることで先人の苦労を学ぼうと、
島津義弘ゆかりの鹿児島県日置市の子どもたちが昭和35年から
毎年行っているもので、ことしは小学生17人が参加しました。
(引用ここまで)
えーそんな行事があったとは!
すいません、県民人ながら知りませんでした(汗)
妙円寺詣りとかはよく知られてますけど。
昭和35年て!
随分昔からやってる行事なんですねー。
こんな風に歴史が継承されていってるとは感慨深いものがありますね。
しかし夏休みとは言え、この糞暑い中こんな行軍して大丈夫かしら?
山中だから少しは涼しいのかな?
コメ欄にあったのですが↓
今も地元では島津越えと言われる峠付近は、結構舗装化が進んでる。
……そうで、あっ、やっぱり向こうじゃ島津越えって呼ばれてるんだw
正式には五僧峠ってとこだそうです。
こういう地元情報は面白いですね。
もうひとつ、コメ欄にあった面白いもの↓
ちなみに島津勢はバラバラに逃げたので、伝承のある退路があちこちにある。
ついでに捨て奸は後世の創作。
島津義弘は本陣に影武者に長寿院盛淳と兵の大半を置いて南宮山方面にこっそり逃走。
南宮山から撤収して来た長束正家の案内もあって無事に大阪へ逃れ
そこから立花宗茂の船で妻と一緒に薩摩へ戻った。
残された義弘の配下の将兵は自力で頑張って逃げて来たので
それが各地に伝承として残っている。
余談だが別の陣にいた島津豊久の行動や消息は一切知られておらず、
島津家としては「帰って来ないから死んだんじゃね?」という扱いにしている。
お豊~~~!
ゲンジバンザイ!(ドリフターズ脳v)
映画や書籍とかの島津のイメージだと「兵一丸となって敵中突破」な絵図だけど
普通に考えたら負け側はバラバラに逃走だよねェ。
それでもちゃっかり井伊直正と松平忠吉には、逃げつつも傷を負わせてるあたりが
(鬼)島津クオリティというべきでしょうか。
ま、島津の本領は戦後処理にあったと言ってもよく、
最南端の僻地という土地の利を生かして徳川と外交合戦を繰り返し
西軍ながらお咎め無しに持ち込んだ事でしょう。
幕末の斉昭公といい、薩摩は割とそういう外交技術は得意だったみたいですね。
エゲレス艦隊と喧嘩始めるほど血の気が多いのに、妙に冷静なところがある。
釣り野伏せとかもそうですね。
ただ突っ込むだけの脳筋には出来ない事ですから。
2019年08月09日
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