2019年06月07日

かごっま弁はなんと暗号だった!?

薩摩方言のWikiを見ていたら、面白い記事を発見しました!


「当時日本の外務省と在独大使館間の情報交換は、
 乱数表を用いた暗号電報を使用していた。
 ところが、戦況の悪化に伴い使用が困難になった。
 そこで、重大機密事項である潜水艦U-511の出航に関する情報交換に
 採用した暗号が「早口の薩隅方言」だった。

 出航前後に十数回、堂々と国際電話を使って話を伝えた。
 アメリカ海軍情報局は当然のことながらこの通話を盗聴し、
 さまざまな方法で暗号の解読に努めたものの、
 最初はどの国の言語かもわからなかった。
 世界中の部族の言語まで調べた挙句、加治木出身の日系二世・伊丹明の手により、
 ようやく薩隅方言だと特定された」(引用ここまで)

第二次世界大戦の事らしいですよ!
わたし、初めて知りました。
どこの国の言語かもわからなかったって……笑笑笑笑
いや、そりゃね、宇宙人語だとか言われてましたけどもw
かごっま弁(当地ではそう言います)は暗号だったのかああ!
それを盗聴し、解読に頭を悩ませたアメリカ海軍情報局の方、ご苦労様でしたw
世界中の部族の言語まで調べたそうですよ……凄いぞ!薩摩!
どんだけ希少価値な言語なんだwww
しかも早口!?
そりゃわかんないよね……
つーか、その加治木の人がいなかったら永遠に分からなかったかも知れないわけか。
なんて胸熱v
あ、でも昔、薩摩藩がスパイ防止に故意に流用したという説は
どうも裏づけはないようですね。
学会でも出た事のない話みたいですよ。
んー都市伝説みたいなものですかね。

そういえば先日、知り合いのお嬢さんから聞いた話。
職場の年配のお姉さま方が、時々何を言ってるのかわからないそーですw
かごっま弁て割と早口で、短いフレーズに切ってポンポン喋る感じ。
南国だけど口は全然ゆっくりしてない。
歩くのはなんか遅いけどw

例えば「きっしゃんか」「てげてげ」「じゃっせんけー」「きしゃばって」なんてのは
 きっしゃんか=汚い
 てげてげ=適当
 じゃっせんけー=そうじゃない?
 きしゃばって=でしゃばって
って訳しますw
よくテレビで「おいどん」なんて言うけど、普通はそんな上品には言いません。
縮めて自分は「おい」、相手は「わい」ですませます。
じゃっせんけー?と問われたら「じゃっどなー(だよねー)」と返しましょう。
 
 うんまか=美味しい
 がっちもー=だって~
 ずし=雑炊 
 け=貝
   ※ちなみに貝掘りは「けほい」
 
 へ=灰(鹿児島では桜島の火山灰の事)
 へ=おなら
   ※ちなみに全然駄目な事を「ぶんとへ」と言いますw
 へ=蝿
 へっ=痛みとかの症状。「へっが前にくる」とは背中から胸に
    症状が移ることを言います。
 

 おらんな=大声を出すな
 おらんな=居ないね
 
 あち=熱い、暑い、厚い

うーーーん。
Wikiを見て改めて思ったのですが、かごっま弁てほんと同音異義語が多いですねー。
確かにイントネーションの違いで無意識に分けてる感じなので、
他県人には分かりにくいかもw
ずしって方言だったんだなー。
そういう雑炊の種類かと思ってたワ。
そういえば長渕剛さんの歌「気張りやんせ」ですが、
某サイトでは歌詞に日本語翻訳がついてましたぜwwww薩摩、恐るべし!  
posted by にょん at 03:28| Comment(0) | 薩摩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月24日

一かけ 二かけ

「一かけ二かけ」という歌をご存知ですか?
「西郷隆盛の娘」とよぶ人もいるみたいですね。
せっせっせ」みたいな、遊びの時に子供が歌う手合わせ歌です。
な~んか耳に残るメロディで、今でもたまに口ずさんでいるわらべ歌なのですが、
最近今更ながらに知った事実!

鹿児島が出てくるので鹿児島の郷土歌唱かと思ったら、
これ普通に全国版なんですね!
ちなみに一般的なのが下の歌詞↓

 ♪一かけ 二かけて 三かけて
  四かけて 五かけて 橋をかけ
  橋の欄干 手を腰に
  はるか彼方を 眺むれば
  十七八の 姉さんが
  花と線香を 手に持って
  もしもし姉さん どこ行くの
  私は九州 鹿児島の
  西郷隆盛 娘です
  明治十年の 戦役に
  切腹なさった 父上の
 お墓詣りに 参ります
  お墓の前で 手を合わせ
  南無阿弥陀仏と 拝みます
  お墓の前には 魂が
  ふうわりふわりと ジャンケンポン

曲が聞いてみたい方はこちらへどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=W9gOvmxPcUk


土地によって少し歌詞は変わってくるようですが、私はこんな風にならいました。
      ↓
 
 一かけ二かけ三かけて 四かけに五かけに橋をかけ
 星のランプに腰をかけ はるか向こうを眺めれば
 十七八の姉さまが 片手に花持ち線香持ち
 もしもし姉さんどこに行く
 私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
 明治10年戦いに 切腹なされた父上の
 お墓参りに参ります
 お墓の前で手を合わせ 波阿弥陀仏と唱えます
 お墓の前では幽霊が ふわりふわりと浮かんでた

子供心にも「星のランプに腰をかけ…なんてロマンチックな歌詞♪」と
思っていましたが、これ「橋の欄干」を「星のランプ」に聞き違えて
そのまま広まってしまったバージョンのようですねぇ(笑
まあ、星のランプの方が素敵だから、このままでいいわw

このわらべ歌、神長瞭月さんという方の「一かけ節」(作詞・大正3年)が
もとになっているようですが、一かけ二かけ三かけて、
のところ以外ほぼ共通点なしです。
土地によっては、明治5年バージョンもあったりするみたい。


メロディの方は「抜刀隊」という軍歌が元らしいんですが…
説明文によると↓

 「抜刀隊(ばっとうたい)は、日本の軍歌。
  西南戦争最大の激戦となった田原坂の戦いにおいて、政府軍側として予想外の形での戦闘、
  すなわち白兵戦が発生した。政府軍は西郷軍に対抗するため、
  士族出身者が多かった警視隊の中から特に剣術に秀でた者を選抜し、
  抜刀隊が臨時編成されて戦闘を行なった。
  軍歌「抜刀隊」は、この抜刀隊の活躍を歌ったものである。」

聞いてみたい方はこちらへどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=h_3LLks_wZY

なんか凄い歌詞ですねw
敵の大将(西郷さん)の事も「古今無双の英雄」とか褒めちぎってます。
いや、にほんの軍歌らしくて好きですけども。
それでわらべ歌なのに妙に現代風で、西郷さんとか西南戦争が出てくるんですねぇ。
これはこども達が歌っていたものをレコード化してから、一気に全国に広がったそう。
つまり作詞は当時の市井の子供達という事になりますね。

ちなみにこの歌に出てくる娘さんは、西郷菊草さん(後に菊子に改名)です。
素敵なお名前!
西郷さんには3回の結婚で5人のお子さんがいたそうな。
あ、そうなんだ。
歌の歌詞に「17,8の」と出来ますが、菊草さんは1880年に17歳で結婚しています。
これは結婚の報告に、墓前に行くところなのかしら?
ちょっと不思議なわらべ歌ですよね。

posted by にょん at 06:00| Comment(0) | 薩摩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月21日

薩摩隼人という戦闘民族について

先日ニコ動で、アニメのドリフターズを見てました。
コメ欄で「島津ー島津ー」連呼されて、薩摩民としてはちょっと嬉しいvv
薩摩が戦闘民族ですと!?
ふっふっふっ、実はその通りです。

関ヶ原の島津の退き口は有名ですが、生麦事件も大概ですね。
何しろ一地方の分際で、中央政権はおろか大国エゲレスにまで喧嘩を売ったのは
薩摩藩くらいのものでしょう。
ついでにその時の賠償金を政府に出させ、それを踏み倒したのも薩摩藩。
どうも軍艦購入代金すら政府に借りて踏み倒した模様(汗
その後、戦争相手にも係わらずエゲレスと(勝手に)仲良くなるんだから
薩摩というのは、本当に面白い藩ですね。

関ヶ原脱出後は使者を送って徳川方と交渉をしながら、
藩をあげて境目に徹底抗戦の陣地を築き、「来るならこいやァ!」と恫喝し、
お蔭様で西軍方にも係わらず、領地が変わらなかった稀有な藩でした。
瀬戸内海で幕府の目を逃れて密貿易をしていたのも薩摩藩。
実はどこかの国際万博に徳川とは別に勝手に藩で参加して、
会場でかち合い大喧嘩になったのも薩摩藩です。
戦闘民族っていうか、梁山泊みたいな人達ですなw

鹿児島弁というのはとても難解な方言らしいです。
関東の親戚が「何言ってるのか全然わかんない!宇宙人語?」と言ってましたね。
ドリフターズの豊さんのはか~なり上品な現代風薩摩弁(笑)
イントネーションが本州とは全く違うんですよねー。
スパイ防止用だった説とかありますが、単に中央政権から一番遠かった為、
独自言語が発達しすぎたのかも知れません。
ちなみに28代斉彬さんは生まれも育ちも江戸だったため、
話す時は家来の通訳が必要だったらしい……通訳てorz

しかし薩摩が中央政権に反旗を翻したのは、江戸時代が初めてではありません。
700年代にはすでに、この地にいた部族が反乱を起こしています。
もともと「薩摩隼人」というのは、この人達の事でした。

日本大百科全書によりますと―――


  古代の南部九州の居住民。(略)
  7世紀後半の隼人は、その居住地によって阿多(あた)(薩摩(さつま)半島)隼人、
  大隅(おおすみ)隼人と区分されていたが、
  8世紀には阿多隼人にかわって薩摩隼人の名称がみられることからすると、
  隼人の居住地は概して現在の鹿児島県を主体としていたのであろう。
  8世紀になって薩摩・大隅両国が日向(ひゅうが)国から分立し、
  律令(りつりょう)支配が浸透すると
  隼人は朝廷に対し抵抗し、720年(養老4)には大規模な抗戦を起こした。
  このとき、大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺され、
  大伴旅人(おおとものたびと)を持節大将軍とする征隼人軍が派遣されている


この時点ですでに中央政権に抵抗する戦闘部族だったんですね。
どんだけ反抗好き民なんだw
あと、これには書いてありませんが「入来(いりき)隼人という人達もいたはず。
脈々と流れる反逆の血脈よ!…と格好良く言いたいところですが、
実はこの薩摩隼人と薩摩藩との繋がりはよく分かってないとか。
どうもインドネシア系の民族ではないかと言われていますが、
ひとつの部族に与えられた名称ではなく、
朝廷が南方の辺境民をまとめて隼人と呼んでいた可能性もあるそうです。
墓とか残ってないので、よくわかっていないようですね。

考えてみると、鉄砲もキリスト教も、
南蛮の風は常に薩摩からもたらされていた……
古代史って浪漫ですねェ。





posted by にょん at 22:37| Comment(0) | 薩摩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする